キリスト 弟子


イエス・キリスト(紀元前6年ないし紀元前4年ごろ - 紀元後30年ごろ[1]、ギリシア語: Ίησοῦς Χριστός[2] ヘブライ語:יהושע המשיח)。ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味。ヘブライ語で「イエスは油注がれた」という意味。イエスとは「יהוה(ヤハウェ又はヤフア)は救い」という意味である。他の預言者と同様ににיהוה(ヤハウェ又はヤフア)の短縮形であるיהוを含む。, キリスト教の多くの教派において、三位一体の教義の元に、神の子が受肉して人となった、真の神であり真の人である救い主として[3][4][5]信仰の対象となっている。しかし、新約聖書内にはイエスを神とする記述は無い。キリスト教とユダヤ教ではיהוה(ヤハウェ又はヤフア)を土着の単語に翻訳するため、יהושע(イエス)とיהוה(ヤハウェ又はヤフア)を混合するケースが見られる。, 「イエス」は人名で、ヘブライ語からギリシア語に転写されたもの。「יהוה(ヤハウェ又はヤフア)は救い」を意味する[5][6]。, 「キリスト」は本来のギリシア語で多神教の神の称号であったが、「膏をつけられた者」という意味のヘブライ語のメシアの称号の翻訳として用いられた。膏をつけられるのは旧約聖書において王・預言者・祭司であったが、イエス・キリストが旧約のそれらすべての前例を越える形で、新約の時代においてはこの3つの職務を併せ持っていたことを示していると解される[6][7]。, イエスの言行を記した福音書を含む『聖書』は世界でもっとも翻訳言語数が多い歴史的ベストセラーであり、音楽・絵画・思想・哲学・世界史などに測り知れない影響を与えた。, イエスは、「イエースース」の慣用的日本語表記である。現代ギリシア語では「イイスス」となる。, 元の語は、アラム語のイェーシューアすなわちヘブライ語のヨシュアで、「יהוה(ヤハウェ又はヤフア)は救い」を意味する[5][6]。『旧約聖書』の「民数記」や「ヨシュア記」に登場するユダヤ人の指導者ヨシュアなどと同名である。, これらのギリシア語表記の語尾は主格形であり、格変化すると異なる語尾に変化する。日本語の慣例表記「イエス」は、古典ギリシア語再建音から、日本語にない固有名詞の格変化語尾を省き、名詞幹のみとしたものである。, 中世以降から現代までのギリシア語からは「イイスス」と転写しうる。日本正教会が用いる「イイスス」は、Ίησοῦς の中世ギリシア語・現代ギリシャ語に由来する転写である。正教古儀式派では、イススという、東スラヴ地域でかつて伝統的だった呼称を現在も用いている。, かつての日本のカトリック教会ではロマンス語の発音からイエズスという語を用いていたが、現在ではエキュメニズムの流れに沿ってイエスに統一されている[8]。戦国時代から江戸時代初期にかけてのキリシタンは、ポルトガル語の発音からゼズまたはゼズスと呼んでいた。, 「イエス・キリスト」はギリシャ語で主格を並べた同格表現で、「キリストであるイエス」「イエスはキリストである」の意味である。, マタイ伝・マルコ伝はそれぞれの冒頭で「ダビデの子イエス・キリスト」「神の子イエス・キリスト」と呼び表しており、この結合表現は新約の他の文書でも用いられている。パウロ書簡には「イエス・キリスト」と並んで「キリスト・イエス」の表現も見られるが、紀元1 - 2世紀の間に「イエス・キリスト」の方が定着していった。, 「キリスト」は救い主への称号であったため、キリスト教の最初期においては、イエスを「イエス・キリスト」と呼ぶことは「イエスがキリストであることを信じる」という信仰告白そのものであったと考えられる。, しかし、キリスト教の歴史の早い段階において、「キリスト」が称号としてではなくイエスを指す固有名詞であるかのように扱われ始めたことも確かであり[10]、パウロ書簡においてすでに「キリスト」が固有名詞として扱われているという説もある[11][12]。, 以下、イエス・キリストとは何者かについて、正教会、カトリック教会、聖公会、プロテスタントに共通する見解を、主に教派ごとの出典に基づいてまとめる。, ヨセフの婚約者であったマリアは、結婚前に聖霊により身ごもった。紀元前4年12月25日、天使の御告によりヨセフはマリアを妻に迎え男の子が生まれ、その子をイエスと名づけた。キリスト教ではこの日を記念しクリスマスとして祝う。しかし、聖書の記述にはイエスの誕生日を明確に明言している箇所は1つもなく、イエスの誕生日が12月25日であるという確証はない。, かなり広く受け入れられていた説明によると、キリスト者たちが、274年以来、12月25日をイエスの誕生と定めたのは、ローマで、太陽が一年のうちで最も長い夜に打ち勝つ日を祝っていたからであるという意見である。この説明の根拠は、降誕祭の典礼と当時の教父たちが、イエス・キリストの誕生と聖書の「正義の光」(マラキア4,2)や「世の光」(ヨハネ1,4他)双方の間に、平行関係を確立させたことにある。しかし、これを証明するのは難しい上に、当時のキリスト者が異邦人の祝日をキリスト教典礼暦に採用したと考えることは、特に迫害が終ったばかりの頃だから、難しいと思われる。勿論、時が経つに連れてキリスト教の祝日が異教の祝いを吸収したと考えることはできるだろう[47]。, 後世のキリスト教徒が定めたからイエスの誕生日が12月25日となったとされる。むしろ、ルカ2:8の文書ではイエスが誕生した時の様子として「羊飼いたちが夜に、野宿しながら羊の群れの番をしていた。」の記述があることから、イエスが必ず12月に誕生していないことが分かる(ベツレヘムでは12月は冬の季節であり、冬の寒い時期に羊飼いが夜に戸外にいるのを見かけることはないと思考できる)。, ヤハウェ(ヤフア)とアブラハムの子孫の契約の更新時期はシャブオットの時期であり、バプテスマのヨハネの生まれた時期等の聖書の記述からすると、グレゴリオ暦による5,6月頃と推測される。, イエスはガリラヤ地方のナザレで育つ。ルカの福音書によれば、大変聡明な子であったという。, そのころ、洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで「悔い改め」を説き、洗礼を施していた。イエスはそこに赴き、ヨハネから洗礼を受ける。, そののち、御霊によって荒れ野に送り出され、そこで40日間断食し、悪魔の誘惑を受けた。, 荒野での試練の後イエスはガリラヤで宣教を開始する。また弟子になった者の中から12人の弟子を選び、彼らに特権を与えた。彼らは十二使徒と呼ばれる。, その後、イエスと弟子たち、また彼らを支える女性たちの活動は2年数か月に及ぶ[48]。, 自らをユダヤ人の王であると名乗り、また「神の子」あるいはメシアであると自称した罪により、衆議会の裁判にかけられたあと、ローマ総督府に引き渡されゴルゴタの丘で磔刑に処せられた。, その後、十字架から下ろされ墓に埋葬されたが、3日目に復活し、大勢の弟子たちの前に現れた。肉体をもった者として復活したと聖書の各所に記されている。, 正教会、カトリック教会、プロテスタントなど多くの教派で、キリストの死者の中からの復活は、初期キリスト教時代からの教えの中心的内容とされており[49][50][51][52]、多くの教派で復活祭は降誕祭(クリスマス)と同等か、もしくは降誕祭より大きな祭として祝われる。, 旧約聖書 - 新約聖書(聖書の登場人物の一覧 - 聖書に登場する地名一覧)- 聖書正典 - 外典, 東方教会(正教会 - 東方諸教会)、西方教会(カトリック - 聖公会 - プロテスタント - アナバプテスト)、その他(キリスト教系新宗教), 聖職(司祭 - 神父 - 修道士)、正教会(神品 - 教衆)、カトリック(教皇 - 枢機卿 - 司教)、プロテスタントの教職者(牧師 - 伝道者 - 宣教師), 主日 - 復活祭/復活大祭 - ペンテコステ - クリスマス - ミサ/聖体礼儀 - イコン - 聖歌/賛美歌 - 音楽 - 礼拝・典礼・奉神礼 - 年中行事, 洗礼 - 聖体 - 聖餐 - 堅信/傅膏 - 告解/痛悔 - 叙階/神品 - 病者の塗油/聖傅 - 婚姻/婚配, 聖伝 - 通史 - 年表 - 原始キリスト教 - 初期キリスト教 - 初代教会 - 古代末期のキリスト教 - 中世ヨーロッパにおける教会と国家 - 教皇領 - 東西教会の分裂 - 叙任権闘争 - 教会改革 - 宗教改革 - ヨーロッパにおける政教分離の歴史 - アメリカ合衆国における政教分離の歴史 - 政教分離, X. 大ヤコブの「大」は、信仰のあつさや偉大さ、年齢等を意味するものではない。アルファイの子ヤコブ「小ヤコブ」と区別するために付けられたものだ。小ヤコブは、大ヤコブよりも年長であったし、大ヤコブの方が、信仰が篤かったり、布教の実績が優れているなどという記録もない。ヤコブに「小」が付されて「小ヤコブ」と呼ばれるのは、弟子になった順番が、大ヤコブより後だったからといわれている。今でも多くの修道会では、最初に入会した者を「major(大)」と呼び、あとから入会した者は、たとえ年長であったり、聖徳に優れていたとしても「minor(小)」と呼ばれる。, Saint James the GreaterGuido Reni/グイド・レーニ 1636-1638年ヒューストン美術館, 大ヤコブは、ゼベダイの子であり、ヨハネと兄弟(大ヤコブは兄)である。ガリラヤ湖畔のベトサイダで漁業を営んでいた。出身、生業ともにペトロ・アンデレ兄弟と同じだ。ある日、大ヤコブは、父と弟のヨハネと共にガリラヤ湖畔の漁船の中で網の手入れをしていると、イエスがやって来て、大ヤコブ・ヨハネ兄弟に声を掛けた。すると、二人はすべてを捨てて、イエスの弟子となった。, ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。, 大ヤコブ・ヨハネ兄弟は、血気盛んな荒々しい気性を持つため「雷の子ら(※)」と名付けられたといわれている。, ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。, サマリア人の村へ宣教に訪れたときには、自分たちが歓迎されないのを見て、「彼らを焼き滅ぼしてしまいましょうか」とイエスに告げ、戒められたエピソードもある。, 大ヤコブは、ペトロ、ヨハネとともにイエスの三側近。12弟子の中のいわば「トップスリー」であった。, ※伝承では、大ヤコブの父ゼベダイは、船数隻を保有し、使用人を雇うことができるほど、とても裕福な漁師であった。エルサレムの都にも魚を出荷していたといわれている。, ※大ヤコブとヨハネの母親サロメは、マリアの妹であった。イエスとヤコブ兄弟とは従兄弟(いとこ)であった。, ※ヨハネによる福音書を記した「ヨハネ」は大ヤコブの弟だ。しかし、ヨハネによる福音書の中では、21章2節に「ゼベダイの子たち」と記されている以外には、兄ヤコブ(大ヤコブ)については、一度も言及されていない。, 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」, イエスの昇天後、大ヤコブは宣教活動を行なった。大ヤコブが「雷の子(※1)」と呼ばれたもう一つの理由は、大ヤコブは、声が非常に大きかったからといわれている。彼の説教の威力は凄まじく、大ヤコブの鳴り響く説教の威力によって「悪人どもをふるいあがらせ、怠惰な人びとを目覚めさせ、その深遠さにだれもが賛嘆しないではおれなかった(※2)」と伝えられている。また、中世の科学的神学者と言われるベーダは、大ヤコブの声が、あと少しでも大きかったら、誰も彼の声を聞き取ることができなかっただろうと述べている。, ※1:当時のヘブライ語の「雷の子(ボアネルゲス)」には「神の声」という意味(訳)もある。, 大ヤコブは、弟のヨハネ、第一弟子のペトロとともに、イエスの三側近であった。彼らはイエスの重要な場面に居合わせ、イエスの奇跡を目撃したり、イエスの苦悩と祈り(ゲッセマネの祈り)に付き添ったりしている。, 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。, イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(=ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。, 初期のエルサレム教会で、大ヤコブは中心的な立場にあった。また、使徒としても活動しており、ユダヤとサマリアの地を伝道して歩き、その後、スペインにも渡った。当時のスペインははるか彼方の辺境の地であったが、ヤコブは熱心にイエスの教えを説いてまわり、この地で9人の信者(弟子)を得た。, エルサレムに戻ると、イエスの弟子たちへの迫害は激化していた。紀元後44年(※)の春の過越祭を目前に、ユダヤ教の巡礼者たちが各地からエルサレムに集ってきた。ヤコブは反ユダヤ教と見なされ、ユダヤ王のヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられた。そして、王は、ユダヤ人を満足させるため大ヤコブを血祭りに上げた。大ヤコブは、12使徒の中で最初の殉教者となった。, ※12使徒の中で、新約聖書(正典)に、殉教の記録が残されているのは、大ヤコブのみ。, そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。, 大ヤコブの殉教後、大ヤコブの亡骸(なきがら)をエルサレムに埋葬することは困難であった。反キリストの勢力が強かったためだ。, 弟子たちはユダヤ人たちを怖れて、夜こっそりと大ヤコブの亡骸を持ち出し、舟に積んで地中海に出た。埋葬の場所は神にゆだねることとし、風や潮の流れにまかせて航海した末、わずか7日間でイベリア半島(スペイン/イスパニアのガリシア地方)に漂流した。そして、大ヤコブの亡骸は無事にスペインの地に葬られたが、墓の場所は忘れ去られてしまった。, 9世紀に入って、大ヤコブの亡骸が埋葬されたといわれるガリシア地方の野原の夜空に星が現れ、地面に一条の光が降り注いだ。その光景を羊飼いが目撃し、星に導かれるように行ったところ、遺骨と墓が見つかり、これこそが聖ヤコブの墓に違いない、大発見だと、一大ニュースとなった。この知らせを聞いた国王アルフォンソ2世は、大変感激し、大ヤコブの墓の上に立派な聖堂を建た。, Santiago de Compostela(サンティアゴ・デ・コンポステラ) スペイン大ヤコブの墓が納られている聖地, 大ヤコブの遺骨が発見されたときは、スペイン人とサラセン人との戦の真っ最中であった。スペインの戦士たちは「聖大ヤコブとスペインのために、命がけで戦うぞ!」と士気が高まり、勝利を手にすることができたといわれている。そして、聖大ヤコブは、スペイン、そして戦いの守護聖人となった。, こうして聖ヤコブを祀って建立されたサンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂は、現代でも巡礼者が絶え間なく訪れるキリスト教の聖地のーつとなっている。, ※キリスト教(カトリック)の三大巡礼地…聖都エルサレム、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、サンティアゴ・デ・コンポステラ大聖堂, 〔参考・引用〕日本聖書教会「新約聖書」/創元社「聖書人物記」/日本文芸社「人物でよくわかる聖書(森実与子著)」/株式会社カンゼン「聖書の人々」/wikipedia/webio「世界宗教用語大事典」/kotobank.jp. ペトロは、イエスの十二弟子のリストで必ず最初に名前が出てくる筆頭使徒、リーダーであり、伝統的に『ペトロの手紙』の著者とされる。 「ペトロの町、ベトサイダ」とあるように(ヨハネ1:44)、ガリラヤ湖北岸 … 47. そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 イェール(翻訳監修者)、(1987年10月20日)『聖書思想事典』47頁 - 56頁、, イエスの公生活中に「過越の祭り」が3回あったことから推定できる。フランシスコ会訳注『新約聖書』299頁注(5)。, J. Radermakeres, P. Grelot(1987年10月20日)『聖書思想事典』730頁 - 735頁, Christ Jesus.(Edited by: Erwin L. Lueker, Luther Poellot, Paul Jackson), The 1677/89 London Baptist Confession of Faith, Theological Outlines • by • Francis J. フィリポはガリラヤ湖の漁師出身(ベトサイダ出身)、12使徒の中でも古株的存在です。フィリポはバルトロマイをイエスのもとに導きました。奇跡を起こす力を持ち、ギリシャや小アジアで熱心に伝道しましたが、異教徒の迫害を受け、二人の娘とともにフリギアで殉教しました。 キリスト教全教派 : 記念日: 5月1日( ... ている。4世紀の歴史家エピファニウスによれば、イエス昇天後にエルサレムで活動した弟子 たちの教団であるエルサレム教会の初代教会長を、紀元38年から、石打ちの刑で殺された紀元62年まで、24年間つとめたとされる。 人物. フィリポはガリラヤ湖の漁師出身(ベトサイダ出身)、12使徒の中でも古株的存在です。フィリポはバルトロマイをイエスのもとに導きました。奇跡を起こす力を持ち、ギリシャや小アジアで熱心に伝道しましたが、異教徒の迫害を受け、二人の娘とともにフリギアで殉教しました。 Hall, https://global.britannica.com/biography/Jesus, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=イエス・キリスト&oldid=79823160, 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した, 54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した, パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる, 95年から96年ごろ著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される. イエス・キリスト(紀元前6年ないし紀元前4年ごろ - 紀元後30年ごろ 、ギリシア語: Ίησοῦς Χριστός  ヘブライ語:יהושע המשיח)。ギリシア語で「キリストであるイエス」、または「イエスはキリストである」という意味である。ヘブライ語で、「受膏したヤフシャ」(ヤフシャとは固有名詞でヘブライ語でיהוהは救い)という意味である。すなわち、キリスト教においてはナザレのイエスをイエス・キリストと呼んでいるが、この呼称自体にイエスがキリストであるとの信仰内容が示されている 。イエスの存在に … イエスの説いた弟子道(2) 前へ | 次へ 【聖書箇所】 14章25節~35節. 反キリストの勢力が強かったためだ。 弟子たちはユダヤ人たちを怖れて、夜こっそりと大ヤコブの亡骸を持ち出し、舟に積んで地中海に出た。 埋葬の場所は神にゆだねることとし、風や潮の流れにまかせて航海した末、わずか7日間でイベリア半島(スペイン/イスパニアのガリシア地方)に漂流した。

12弟子とは、 イエスキリストが最初に選ばれた代表的な12人の弟子 のことです。 “12使徒”とも呼ばれます。 12弟子は生前のイエスキリストと行動を共にし、イエスキリストが昇天後はそれぞれその教えを広めていきました。


レオン・デュフール(編集委員長)Z. image by iStockphoto 地中海の東、いまのイスラエルがあるあたりは昔からパレスチナ地方と呼ばれていました。 このパレスチナの北部、ガリラヤ湖(別名ティベリアス湖)の西にナザレという土地があります。 イエスはこのナザレで生まれ育ちました。 イエスの誕生年は西暦1年か、もしくはその数年 … キリストの弟子たち(1)ペトロ(12使徒) 編集部 . 大ヤコブの弟、ガリラヤの漁師の子。イエスを洗礼した洗礼者ヨハネの弟子。ヤコブ、ペテロと共にイエスの一番弟子であり、常にイエスと行動を共にした。気性が荒いことでヤコブと共にイエスから「雷の子」というあだ名を付けられた。 はじめに. マタイ5:38 “あなたがたも聞いているとおり、‘目には目を、歯には歯... この写真の人は重要人物です。名前をジム・ディロン長老といいます。どんな重要人物だと思いますか? 人を許す(3分)

「聖フィリポ」 ピーテル・パウル・ルーベンス(1611年頃製作)プラド美術館(Madrid, スペイン), フィリポ(ピリポ)は、ペテロやアンデレと同じベトサイダの出身。ヨルダン川の岸辺にいたところをイエスに直接招かれて弟子になりました。洗礼ヨハネの弟子だったといわれています。フィリポは友人のバルトロマイ(別名:ナタナエル)をイエスのもとに導いたところ、バルトロマイも弟子になりました。フィリポは十二使徒の中でも親しみやすい人柄であったといわれています。, イエス死後、サマリアをはじめ、各地で熱心に伝道しましたが、ヒエラポリスで二人の娘とともに殉教しました。, その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。, フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」, フィリポは、イエスと共に旅をする間は食糧の調達を担当していました。ある日、イエスの説教を聞きに来ていた5000人の群衆に、イエスの命令で食べ物を与えようとしていました。そのときの様子が新約聖書に記録されています。, イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。, ※1デナリオンは当時の労働に対する1日分程度の報酬と言われています。今でいうと1万~2万円程度です。, この後、イエスは奇跡を起こして、5つのパンと2匹の魚で5000人を満腹にしたことが記録されています。, 上記のとおり新約聖書には、イエスはフィリポを試しみるために質問されたと記されています。その場所は、人里離れた所であり、たとえ、お金があったとしても、5000人分のパンは得られなかったでしょう。フィリポは、「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と現実的な回答をします。, イエスは、何を試しみられようとされたのでしょうか。これには、さまざまな解釈があります。一般的な解釈は、フィリポの「信仰心や真理の理解度」です。イエスは、人々を生かす(=食べさせる)のは、いったい何なのか、誰なのか、ということを教えたかったといわれています。, なお、イエスの多くの奇跡の中でも、上記の「パンと魚の奇跡」は、新約聖書の4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)すべてに記録されています。より深い奥義が秘められているのかも知れません。, 最後の晩餐のとき、ユダの裏切りにより処刑されるという自らの運命を悟ったイエスは、弟子たちに、父(=神)のもとに行くことを話します。するとフィリポは「その御父をお示しください。」と言います。イエスは悲憤やるかたない思いで、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」と答えられました。, イエスは堕落した人間ではなく、本来の人間として降臨されました。そのため、イエスには霊的に見れば神が宿っているため、「父がわたしの内におられる」と言われたのです。, イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。, イエスをあきれさせてしまうほど、的はずれな言動の多いフィリポでしたが、イエスの死後の使徒としての活躍は、目を見張るような記録や伝説が残されています。, フィリポは、サマリアやスキュティア(ウクライナ)、ギリシャ、小アジアの地で熱心に伝道したと伝えられています。, フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。町の人々は大変喜んだ。, ある日、異教徒たちに捕えられ、軍神マルス(※1)の立像で、香を捧げるように命令されました。そのとき、軍神マルスの柱の下から大きな竜が現れ、供犠(※2)の火を焚いていた神官の息子を殺し、フィリポを鎖につないでいた二人の将官の命を奪いました。さらに竜は、あっちこっちに毒の息を吹きかけたので、その場にいた者はみんな病気になってしまいました。フィリポは一同に呼びかけ、人々に改心する約束をさせ、その竜に命じ、追い払いました。, その後、フィリポは、すべての病人を癒やし、死者を生き返らせることにより、人々をキリスト教へと改宗させました。, ※2:供犠(くぎ):神に供物や犠牲をささげ、それを媒介として人間が神に祈る儀礼(kotobank.jp)。, ピリポは、一同に呼びかけた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたたちがこのいつわりの神像を打ちこわし、かわりに主の十字架をあがめるならば、あなたたちの病人を癒し、死んだ人たちも生きかえらせてあげましょう」すると、毒にあてられた人たちは、苦しみあえぎながら答えた。「お願いです。どうか病気を治してください。そうすれば、すぐにもこの偶像をとりこわします」これを聞いて、ピリポは、竜に、どこか人間の害にならないような荒野に行け、と命じた。竜は、すぐにその場を去って、もう二度と姿をあらわさなかった。, その後、フィリポは、ヒエラポリス(※1)に行きました。この町では、エビオン派の異端者(※2)たちを撲滅しました。, その後、フィリポは、異教徒たちにより捕えられ、十字架にかけられ、石打ちにされ、二人の娘(※3)とともに、殉教しました。, ※1:フィリポが宣教活動した当時はローマ帝国の都市。紀元前190年にペルガモン王国の都市として建設。後にローマ帝国に征服されてからは温泉保養地として繁栄し、ローマ皇帝も訪れています。当時から地震が多く、震災と復興が繰り返されてきたと言われていますが、1354年の大地震で廃墟になりました。現在はトルコ西部の都市となり、世界遺産として残されています。, ※2:キリスト教をユダヤ教的に理解していたキリスト教徒。律法を重視し、キリストの処女誕生や神性を否定。また、パウロの書簡なども背教として否定していました。現在のキリスト教神学には影響していませんが、イスラーム教に何らかの影響を及ぼしたと言われています。, ※3:フィリポの2人の娘は、信心深い乙女たちで、主は、このふたりを通じて多くの人々を信仰に導かれたと言われています。, 殉教死の七日まえに、ピリポは、管下の司教たち、司祭たちを全員よび集めて、こう話した。「主は、あと七日の命をわたしにくださいました。わたしに主のいましめをあなたがたに伝えさせて、あなたがたを強くしようとのお考えです」このとき、聖人は、齢八十七歳になっていた。そのあと、異教徒たちは、彼を捕えると、彼がその福音を宣べひろめた師(イエス)のばあいとおなじく、十字架にかけた。こうして、ピリポは、主のみもとに召され、生涯を至福のうちに終えた。ふたりの娘も、父のかたわら、ひとりは右側に、ひとりは左側に葬られた。, 〔参考・引用〕日本聖書教会「新約聖書」/ヤコブス・デ・ウォラギネ「黄金伝説」/wikipedia/kotobank.jp.

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